じゅねさんの子育てマニュアル
2005/12/18(日) 午後 0:59
「母性本能」が生まれついたものかどうか、「三歳児神話」があるとかないとか、いろいろと議論されているようですが、それはおいといて、個人の考え方として読んで頂ければ幸いです。
子どもは自分が望まれてこの世に出てきたのだ、母や父が自分を守ってくれるものだと信じて生まれてくると言われています。0歳児の時は、100%誰かの助けがなければ子どもは生きていきません。この時期に、母(もしくは母に相当する人)からどれだけの無条件の愛を受けられるかどうかは、その子の後の人生に大きく影響を与えます。特に、脳が周りで起こったことを自動的に配線してしまう3歳くらいまでは、この時期までの親の周りの人間関係、親の精神状態などによって、自分が見習うべき「モデル」がインプットされてしまうので、例え子どもの記憶に残っていなくても、基礎はできてしまうことになるのです。 もし、わが子が何かしら問題を出した時、親は、是非子どもがお腹にいる頃自分がどんな暮らしをしていたか、子どもが3歳くらいまでの間、夫婦仲が良かったか、嫁姑の争いがなかったか、など、その頃の状況をもういちど点検してみることをお勧めします。 子どもが大きくなるに連れて、だんだんと親の手を離れていくのですが、子どもにとって、いつでも誰か自分を待っていてくれる人が家にいるかどうか、ということも、その成長に大きな影響を与えると思います。
大人だって、夜帰ってきた時に、灯りがともって、ドアを開けたら「お帰りなさい」とニコニコしている家族に迎えられるのと、いつ帰っても暗い、誰もいない家に帰るのとでは全然気分が違いますよね。
子どもならなおさらです。これが毎日毎日、小さな積み重ねとして「今日も誰もいない」「今日も一人だ」「今日もやっぱりいないのだ」があると、いずれは「どうせ家になんて帰っても」「帰ってもどうせ一人だし」「誰かが待っているわけでもないし」 という、「自分を待っている人はいない」「自分は誰かに待っていてもらえる価値はない」というような価値観をもって大人になっていくのではないでしょうか。
誰でも、「良いこと・嬉しいこと」があれば、誰かに聞いて欲しいし、分かち合いたいと思うでしょうし、「つらいこと・悲しいこと」があったら、誰かに側にいてほしい、と思いませんか。
小学校2年の娘が、時々学童に行かないで家に帰ってきてしまうことがあります。そういうときは、気まずそうな顔をして言い訳をします。「今日は一般(学童保育ではなく)で行く」。黙って抱きついてくることもあれば、べそをかいていることもあります。「どうしたの?」と聞いて抱きしめてあげると、何かしらつらかったことを話してくれることもあれば、「ママの顔が見たかったの」という時もあります。 だいたいは、そこで数分の交流があると、晴れ晴れとした顔をして、さっさと児童館に行きます。
子どもにとって幼稚園や学校などの集団の場は、一つの戦いの場ですよね。自分が仲間に入れるか、仲間から外されるか、意地悪されるか、先生からどう評価されるか、仲間の信頼を得られるか。あっちとくっついたり、こっちとくっついたり、訳わからずに突然無視されたり。 この辺のことは、どの子にも、多かれ少なかれ起こってくることだと思います。また、その中で子供たちは、自分の居心地の良い場所はどこか、どのあたりに自分を位置づければ仲間に入れるのか、など、妥協するべき点とか、我慢するとか、主張するとか、人と仲良くやって行くには自分の中でどの辺で折り合いをつけたらいいのか。ということを学んでいくわけです。
大人から見れば通ってきた道だから成長の過程と見られますが、子どもにとっては結構な修羅場のはずです。とはいっても、この過程を自分で乗り越えないと、成長してから社会の中で上手くやっていけるようになりません。
昨日参加した「家庭倫理の会」子育てセミナーの講師もおっしゃっていましたが、親にできることは、子どもの話を聞いてあげること、十分に受けとめてあげることだと思います。決して親は「答」を出してはいけない。
母のことを、「お袋」といいます。母は、すべてを受け入れてくれる「大きな袋」という方もいますよね。(夫もでしょうが)子どもは、母の袋に自分の背負っている荷物を全部入れてもらって、また身軽になれるからこそ、外で戦うエネルギーを得ることができると言えます。
こう書いてくると、「母」だけが苦しい思いをすると考えられる方もいらっしゃるかもしれませんが、そこはまた別立てで書いていきたいと思います。いっしょくたに考えるから混乱してしまうのだと思って下さい。
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